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与論

 与論は鹿児島県の最南端に位置し,沖縄のすぐ北にある周囲たった22kmの島である。 海岸線のほとんどが珊瑚礁である。 珊瑚礁の内側の礁湖には多くの海水熱帯魚が生息するとともに 枝サンゴ,テーブルサンゴや塊サンゴも多く見られる。
 黒潮の関係と島の形状から,島の東側には広大な浅瀬が広がり,干潮時に周囲 200m以上の砂浜が浮かび上がる。これを百合が浜といって冷たい飲物や氷を売る 舟が干上がる前の場所に陣取り,営業を開始し,次の満潮になると帰ってゆく。
 大陸棚の縁に位置する南西諸島特有のダイビングスポットも島の周囲には多く, 魚群の多いことも加えて人気のスポットになっており,特に女性客がダイビング を始めるには絶好の場所でもある。

 与論の歴史は古く,紀元前から始まる。おそらく,南米の縄文文化(私は海を 渡った説を支持する)に先じて人が住み着いたのではないかと想像する。

 あまんゆ(奄美世)とは奄美の歴史の中で、原始から8〜9世紀頃の前の階層社 会以前の共同体(マキョ)の時代の呼び名である。
 この時代の後、奄美は独立国のように島内における首長による支配時代を経て、 琉球王朝に属したが,さらに,その後の薩摩藩の支配を受ける。薩摩藩の支配の ころから第二次大戦の終了まで経済的な冷遇,奴隷的属国体制に苦しんだ時代が 続いた。

 第2次大戦後,昭和21年に,米軍政府の管轄下で島民以外の渡航が制限され, 昭和28年に日本に復帰した。沖縄の本土復帰以前の昭和36,7年に相次ぎ大型船舶 が奄美群島に周航した。多くは奄美群島の生活物資輸送であったが,観光客の輸 送も大きな比率を占める。しかし,与論を始め,多くの島にはマトモな港もなく, 観光客は沖で下ろされ,ハシケで渡るという状態であった。
 昭和47年沖縄の本土復帰とともに,南西諸島を訪れる観光客は増加し,その対 象も,奄美大島から始まり,沖縄,石垣と徐々に南西に伸び,現在は,西表まで 大型船や飛行機で観光を楽しめる。 与論では,昭和54年に大型船舶の着岸でき る港(供利港・与論港)ができ,観光も本格化した。昭和60年代をピークに大挙し て観光客が訪れた。
 与論はもちろん,沖縄,石垣,宮古やその周辺の沿岸の美しい島々は住宅開発 で木が切られ,赤土や表土が珊瑚の海に流れ込むとともに人口の増加に対応しな い下水処理やゴミ処理能力のため,これらの美しい自然の一部は破壊された。現 在,昔の状態には決して戻ることのできないほどに壊滅的な状態になっている場 所も少なくない。

 バブルが崩壊する前,昭和62年くらいまでは島の人口の8倍以上の若者が7月 になると,東京や京阪神からやってきて,大変賑やかな島になっていた。しかし, バブルが崩壊し,円高が急速に進むと,これらの南西諸島に渡るよりも,ハワイ, グァムなどに観光に行く方が安上がりとなり,それまでもメジャーではなかった 与論を訪れる観光客は激減した。

 この現象はより悲惨な結果を生み出している。 離島の住民は,法律で保護されているため,比較的経済観念が薄い。それと,本 土では決して得ることのできない空気・水・風光などは島の住民には当たり前の ことであるという保護意識の希薄さの両者が相まって,科学的な自然保護活動の 重要性を意識することが遅れてきた。現在,鹿児島大学や琉球大学を中心として 活動が行われているが,行政に保護活動を提言する迄には至らず,観光開発を分 担するに留まっている。

 また,観光ブーム現象が島の経済に与える影響は,極めて大きい。 国内でこれほどの自然を体験できる場所は稀であり, 南西諸島の観光資源は極めて価値が高いと考える。 しかし, これらの島民の経済は, 大型の島である沖縄を除いて, あまりにも観光産業に比重を掛け過ぎ,依存してきた。

 南西諸島の住民に叱咤されるかも知れないが, 昭和60年代の大観光ブームの「夢をもう一度」といった願いが強いように思われる。 観光客を満足させ,自然を資源であると認識して, 地に足がついた長期的な観光経営を行って欲しいと願っている。

 与論をこよなく愛し, 毎年,学生とともに夏の終りに訪問する。 学生が自然のエネルギーの大きさを知るため, あの強烈な日差し,猛威を振るい避けることのできない台風の強大さを教材にし 私はガイドとして説明をしながら体で大学教育をしている。 おそらく,工学教育と与論の関係を理解していただくのは困難であるかも知れない。 しかし,私は信念を持ってこの教材を毎年採用している。

平成8年6月
平成9年11月修正

国士舘大学工学部
岸本 健
kkishim@kokushikan.ac.jp