与論の山根さんのページより「エラブ 森家の生活」を拝見しました。その中に「沖永良部台風から20年」とあり ました。私はちょうど20年前の9月9日、与論島にてその模様を体験しました。 大学生活最初の夏休み、、明後日にはキャンパスに戻るはずだった、、嵐の夜を 鮮明に記憶しています。私は、なんら学識経験の有する者ではありません、幾度 となく天災に立ち向かってきた島民でもありませんが、よろしければ「思い出話 し」に付き合って下さい。
アルバイトに明け暮れた8月も終わり、9月にはいって2日目に初めて飛行機に 乗ったのが、その年の与論行きでした。台風が近づいていることは知っていまし たが、毎日毎日晴天が続き、風もありませんでした。明日は帰路に就く、、とい う日にグラスボートの船長さんが空を見上げてポツリと呟きました。「明日は飛 ばないなぁ」
緩やかなそよ風の吹く晴天。私は船長さんの言ったことが信じられませんでした。 ただ、青空には白い絵具を乗せた絵筆を、真一文字に走らせたような雲がありま した。きっと船長さんの長年の経験で雲の様子を見ていたのでしょう。
翌日、航空便は全て欠航、日も暮れ夜になると、いきなりやってきました。とに かく台風の通過するスピードが速かったのを覚えています。いっきに通過したと いう感じでした。
当時から現在に至るまで定宿である「ムトウ旅館」は、シーズン2年目だったと 思います。間借りして経営していた「ふくちゃん荘」から、自らの手で建築した 「我が家」でした。今から思えば「ムトウのおやじさん」は不安だったでしょう。 現在記録に残る数字が物語るように、凄まじい台風だったのですから。(ミリバー ルと表現されていた当時、発表された数字は800ミリバール台だったような記 憶があります)
台風がやってくると、ムトウ旅館の2階の客間は、廊下をはさんで暴風雨の風上 の部屋と風下の部屋に分かれました。そして深夜には突然の停電。そんな最中に 「浸水」は始まりました。なぜ2階の客室に?
今までに出会ったことの無い暴風雨に「風上側」の窓のアルミサッシが風圧でし なるのです。その2枚の窓ガラスの隙間から雨水が吹き出すように入ってくるの です。ろうそくと懐中電灯の灯りの中で風上側の客が風下側に非難して、夜を明 かしたのを覚えています。
いっきに台風が通過した翌朝、ムトウ旅館の送迎バスは風で30mmほども横転し、 隣のサトウキビ畑の中にありました。玄関に設置していた自動販売機は中庭にま で移動して横たわっていました。
なんとか与論は台風の直撃を免れましたが、隣の永良部は直撃を受け悲しいこと に大多数の被害、死者が出ました。救援活動とは程遠い離島での生活の厳しさ、 大自然の恐ろしさ、人の無力さを知りました。しかし反面、離島で暮らす人々の 謙虚さ、真面目さ、を僅か二十歳の馬鹿者だった私に授けて頂きました。
台風が過ぎるとすぐに飛行機は運行を再開しました。未だおさまらぬ強い横風で、 離陸するYS−11の機首が斜め (進行方向を北とすれば北北西) を向いてい たのを記憶しています。鹿児島行きに搭乗すると、奄美大島を過ぎるあたりまで は、ほとんどジェットコースター状態でした。幾度か天井に頭をぶつけ、シート ベルトを締め直しました。自分の尻が座席から離れたのは、この時以来2度とあ りません。
あれから20年、はじめて飛行機に乗って20年、、、早朝のビジネスジャンボ に乗ることが増えてきたこの頃、、空調の整った快適な機内で「沖永良部台風」 を、よく思い出します。
「沖永良部台風」は青春の記憶のなか、鮮明に、しかも力強く刻まれています。 もっとも、飛行場すら無かった22年前、奄美諸島を南下する船から見た海、、、 刻々と明るさを増してゆく豊かな色彩の記憶には、とても及ぶものではありませ んが。