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与論からの便り

与論からMLで到着した便りや与論のニュースです。与論の雰囲気を楽しんで下さい。

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思いついたキーワード From: "mitsui"
与論便り(その1) From: "yamane"
「与論らしさ」とは From: "ikeda"
与論便り(NO2) From: "yamane"
与論らしさpart-2 From: "ikeda"
与論らしさpart-3 From: "ikeda"
与論便り(NO.3) From: "yamane"
帰郷感想文1『与論中学校』 From: "ikeda"
帰郷感想文2『プライベートビーチの出現』与論らしさ part-4  From: "ikeda"
帰郷感想文3『廃屋の行く末』  From: "ikeda"
当時の思い出 From: "SEIICHI HIRAI"
RE: 当時の思い出 (その後、、、) From: "三井"
西暦 200X年 からのメール Vol 1 From: "Mitsui"
西暦 200X年 からのメール Vol 2 From: "Mitsui"
西暦 200X年 からのメール Vol 3 From: "Mitsui"
西暦 200X年 からのメール Vol 4 From: "Mitsui"
西暦 200X年 からのメール Vol 5 From: "Mitsui"
開発とは  From: "玉置"
西暦 200X年 からのメール Vol 6 From: "Mitsui"
西暦 200X年 からのメール Vol 7 From: "Mitsui"
シーサーズパラダイス   From: "Mitsui"
天女は舞い下りた   From: "Mitsui"
イサナの反撃   From: "Mitsui"
竜宮丸 大忙し!   From: "Mitsui"
























与論便り(その1)  From: "yamane"
Date: Sat, 10 Jan 1998 00:26:06 +0900
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今日の晩は月が満月に近く,気温もそんなに低くなく,快適です新聞が読めるほ
どの月明かりで,週に平均4回,ハキビナの浜までウォーキングしていますが
今年に入りサトウキビの刈り入れも始まりました,ススキの穂とそっくりなサト
ウキビの穂がなびく道を1時間ほどかみさんと,駄犬ラッキー二人と一匹で歩き
ました.
  今年はほんとに与論は暖かいです.
  東京は十何年ぶりに大雪だそうですが。 

  先ほどのスイス人冷蔵庫の修理代いらないと言ったら,僕が留守中でしたが有
泉2本ぶら下げてやってきたらしい.
  明日かあさって篠原さんと3人で飲む予定,

   >> おおーい○○飲みにこないか.

このスイス人の奥さん与論の人でした.
























「与論らしさ」とは  From: "ikeda"
Date: Sat, 10 Jan 1998 00:26:06 +0900
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 山根さんが奥さんと共に散策したハキビナの磯に打ち寄せる波の音を私はい
つでも聞く事が出来ます。実は2年前の帰郷でその音をマイクロカセットで録
音して持ち帰ったのです。「いつ来てと 語りて去りし 潮騒や」と言うのが
その時の私の心境でした。
 ハキビナはその昔、沖縄から与論に渡ってきた英傑ウプドーナタやサービ
マートイ達が沖縄に残した恋女との逢う瀬の行き帰りに歩いた浜であったし沖
縄戦末期、沖縄に向けた弾薬補給を試みた浜であったとも聞きました。
 岩を撫でるように行き来する波がいつの日か消えるのではないかと急に不安
になりスイッチを入れたのです。
 その地、その場所には似合う歴史、似合う風景、似合う音、似合う匂いがあ
ります。それが「らしさ」だと思います。
 「与論らしさ」これが私のテーマです。
























与論便り(NO2)  From: "yamane"
Date: Sun, 11 Jan 1998 09:39:05 +0900
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今日の与論は朝から快晴

朝7時ごろ起きて新聞を丹念にめを通しながらお茶を飲んでいました.9時頃に
なっても誰も起きてこない

じいさん,かみさん,ラッキー,トラの家族構成ですが,トラさえこないので,
9時頃2Fにいったら,やっと愚妻が起きてきた,ふつう9時頃から仕事始めて
いるので,ぼつぼつ一緒に仕事している弟がくるかなーと時計を眺めていたら,
なんと今日は日曜日だった.

ぜーんぜーん知りませんでした.それからさっきの新聞ですがこれは朝刊でも夕
刊でもありません.
昨刊です.いわば古新聞です.古新聞を丹念に読むのも与論ならではのことです.
のんびりしているでしょう.
天気は暑いぐらいの快晴で,初夏のようです.

東京.大阪どうですか.
























与論らしさpart-2  From: "ikeda"
Date: Sun, 11 Jan 1998 17:58:00 +0900
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池田です。
 その地に似合う云々と書きましたが、その云々は無意識に出来上がるもので
無い事は言わずもがなです。似合うものが何であるかを強く意識しそれを作り
守る努力が必要なのです。そして、その似合うものの発想の原点は自らを正し
く認識するところから始まらなければならないと思っています。すなわち与論
島を如何に客観的に見るかが大切だと思うのです。
  景勝地に散在する廃墟群、存在するプライベートビーチ、変わり行く海岸線
etc。
  都会並の消費社会を享受した代償として相応しかったのかと心の隅で葛藤して
いる人も多いのではと想像するのですが。私も島の海の美しさを自慢したいので
すが残念ながら世界規模で見ればもっと美しい海が便利なアクセス、豊かな生活
環境で存在するのです。島の実力、価値を冷静に見極めて見ようではありません
か。
 ウプドーナタ(大道那太)とサービマートウイの二人の英傑は同時代に生き
た歴史上の実在の人物で有名ですから島の人達には馴染みの話だと思います。
 今、私が興味があるのは大いなる権力者でありながら何故恋女を沖縄に残し
て側に呼び寄せなかったのかという事と片方にのみ漢字の名が残っているのか
という疑問です。
  想像を逞しくすれば面白いフイクションが書けそうです。

























与論らしさpart-3  From: "ikeda"
Date: Tue, 13 Jan 1998 16:48:00 +0900
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 与論島の評価が想像以上に高いことを与論人として素直に喜びたいと思います。
と同時に、皆さんの評価があればこそ皆さんの目が何処にあるかをもっともっと
考えたいと思います。
 「海の美しさも島人の心の豊かさももっともっと素晴らしかった。あの頃を1
00点とすれば今の実力は……?」私の思いはどうしても其処から出発します。
確かに記憶は時を経て昇華されます。でもその昇華作用による回帰思想こそが物
質主義一辺倒への歯止めになっているのだとも思うのです。
 僅かに残ったイチョーキ長浜の砂と共に海のぬくもりも島人の心の豊かさも埋
まるのではと危惧してなりません。
 ウプドーナタとサービマートウイの話しに興味を持っていただき嬉しく思いま
す。文才無き私ですが夢想は得意ですのでトライします。期待せず待っていて下
さい。

























与論便り(NO.3)  From: "yamane"
Date: Tue, 13 Jan 1998 18:50:12 +0900

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与論便り

  きょうも朝日がまぶしい,食卓のテーブルの側に置いてあるテレビに横から朝
日が当たりまぶしくて見えない
  場所を変えればいいのですが,ほかとの配置からここがいい

  昨晩もハキビナに歩いた,狭いながら舗装された一直線の農道をま南に向かっ
て歩くと20分ぐらいでりっちょうの公民館のそばをとうる,そのころは汗ばん
できます,そこからしばらく下り坂で,南風が爽快です,何故か今頃南風です.

  あと10分ぐらいでハキビナにつきます.

  さらにそこをUターンして公民館までは上り坂。少しきついが,そこを通り過
ぎれば小高い丘の上から眺めるち茶花の町の灯りがきれい。
  坂を上った後なので,風がとても気持ちがいい.
  右手60度の空には満月が輝く。

  サトウキビの穂が一面たなびく小径をMLのみなさんのことなど考えながら,
歩いているといつの間にか家の近くまで来ます.

























与論中学校   From: "ikeda"
Date: Fri, 16 Jan 1998 17:11:00 +0900
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  ピャーヌパンタを登り詰めて幾筋かの交差点を過ぎて少し走り、今日の主目的
地である中学校の南に沿って走る本通りの反対車線を越えた僅かな空き地に車を
停めた。
 「アンマーヤ クルマナイ ウリャー(お母さんは車にいなさいね)と運転役の
末弟が母に声を掛け父、妻、末弟、私の4人は車を降りた。膝が変形して足が不
自由になった母は何処へ行くにも同行するが下車しての遠歩きになると車に留ま
り留守役となるのだ。
  行き交う人もいない初夏の本通りを横切り左斜めに位置する正門へとゆっくり
した歩調で進んだ。正門の位置は40年前のあの当時と変わっていなかったし本
通りからの僅かな登り具合も同じであったがアプローチの様子は少し違った。扇
形になってそこそこに広げられた平面に無駄なく体裁良く整えられた植え込みや
やたら気になる縦格子の門扉が少し緊張を誘った。
  日曜日にも関わらず門扉は開け放たれていた。校内で目にする人はテニスの練
習に熱中している10数人の女生徒達だけで、校内へ入るのを拒む物理的な物は何
も無かったが、数分間、門柱に目線を留めたまま校内への進入に躊躇した。
  突然に、誂えて仕立てて貰った背広を着込んで門柱に凭れるようなポーズで撮っ
た写真が頭に浮かんだ。あれは、中学を卒業して5年目だったろうか?、就職し
て初めての帰郷であった。新調した背広に革靴と言った出で立ちに、これも、思
いが叶って初めて手に入れたカメラを自慢げにぶら下げて中学校へ出掛けたのは
多分“自前の出で立ち”を後輩達に自慢したい下心で有ったに違いない。
  あの時も、この門を前にして進入を躊躇した。結局は、入る勇気が出ずに中学
の周りを中の様子をそれとなく伺いながら徘徊した挙げ句のスナップであった。
  話は、門柱への目線をきっかけに大きく脱線してしまった。元に戻さねばなら
ない。
  あの頃の校舎は何処にも見当たらず少々ガッカリしたが、それは郷愁に浸る昔
人の戯れ言だと気付き、その思いを飲み込んだ。
  そんな私の微かな動揺を知ってか知らずか、平気そうに入る父と末弟の後を追っ
て校庭へと進んだ。
  歩くと靴跡が残る校庭のぬかるみが、すっかり忘れていた昨日の夕立を思い出
させた。この土を幾重か捲れば、あの時、前浜から運んだ砂が顔を出し「わしも
変わらんが君も変わらんね」と、言ってくれるであろうか。この校庭に全校生徒
が列をなして砂を運び撒いた。
  我々は、運動場に凸凹を残すまいと足元に気遣いながら、新しい校舎へと向かっ
た。「新しい校舎の玄関に、Hさんが描いたレリーフがあるよ。島の伝統である
一五夜踊りを生徒達に忘れて欲しくないから描いたんだそうよ。見に行ったら良
いわ!」と言って、今日の中学校行きの動機を作ったのは義姉であった。 
  白く塗られたペンキが未だ艶を残し、新しさを証明していた校舎は私が中学三
年の時入っていた教室辺りに建っていた。
  凹形になった玄関の両壁には、確かに、一五夜踊りの、ある所作が絵タイルの
レリーフとしてあった。
  筆跡を指でなぞってみたくなる程の力強い絵筆のタッチで幽玄な世界が描かれ
ていた。
  立ち去る前に、レリーフを背景に立ってカメラに収まりながら、「後輩達よ、
この絵に向かって何と話し掛ける?。学校で学ぶ科学的理論、理屈も大切だが、
数百年の歴史を経て尚、今に残る島人の精神文化も大切にしてくれよ。それがH
先輩の想いの筈だ」と、念じた。
  西に目を転じると、町勢要覧と言う機関誌にギリシャの神殿をイメージして建
てたと紹介してあった体育館が目に入った。
  確かに、一見、写真で見る神殿を連想させるし、正面に並んで建っている五本
の柱群の形状は大凡、エンタシス風ではある。が、一瞬、私の心に、何故ギリシャ
の神殿風なの?と言う疑問が湧いた。
  ギリシャ風が出て来たのは姉妹都市のミコノス島がギリシャにあったからなの
だろう。私はギリシャのミコノス島と与論島が紺碧の海に浮かぶ美しい島で、似
合いだったろうと想像はするが、姉妹都市の締結をした経緯を知らない。 
  だから、勿論の事、ミコノス島の風土も文化も歴史も知らないし、どちらが姉
でどちらが妹なのかも知らない。
  「そんな事に拘る意味があるんかね。姉と妹など、お互いが都合良く使い分け
たら良いし、時と場合で役割を変えても良いんだよ」と言う声も聞こえてくるが、
「姉妹の関係なんて、そう簡単に使い分けられるものでは無いよ。妹と姉にはそ
れぞれに越えられないものがある筈だ」と、私の可愛い気の無い屁理屈癖が頭を
もたげてしまう。
  否、それよりもギリシャ風?を思ったのは、それじゃ与論風って何?と、反射
的に思ったからである。ミコノス島には与論風の何が建ったのだろうか?与論風っ
て何だろうか?私は知りたい。
  同時に、らしく造られたエンタシス風な柱群は本物のエンタシスを何処まで理
解、認識し、昇華したのだろうか?とも思ったのである。
  柱の膨らみ具合、柱脚、柱頭とのバランスや絵彫刻等には多くの芸術家、技術
者達が試行錯誤した歴史があったのだから。
  作品に感動し模倣する事、作品からイメージを広げると言う事は、決して結果
をなぞる事でない。其処に至る過程を知って発想の幅を広げる事だと思う。
  そんな思いを引き吊りながら東に並んだ校舎の前を通ると、其処は職員室で窓
越しに宿直らしい青年先生の目線を受けた。
  テニスコートの東には老ガジュマルの大木が列となって根を垂れていた。その
1本に近付くと、岩肌を思わせる木肌に釘打ちされた「卒業記念樹、第7回卒業
生(昭和30年3月)は組」と書かれた木札に気が付いた。
  私は時を遡り、記憶を辿った。しかし、此処に平屋の鉄筋校舎が建っていた事
だけで、ガジュマルの若木は蘇らなかった。
  テニスコートでは「打点を高くしろ!腰を弓の如く絞れ!球に正対せよ!……
…」等と言っているのであろうか、髪を後ろに束ねたトレーナー姿の先生が女生
徒達の腕を持ち、腰に手を当てて教えていた。
  如何にも学校を思わせるスタイルの良い若き女先生だった。あの先生の名前は
何て言うんだろう?。
  「随分と大勢だね」と、交代で休憩中の女生徒に声を掛けると、「3年生は引
退しました。1、2年生だけです」との返事であった。時の巡りが此処にもあっ
た。
  蓮池の事も一言書いておきたい。校庭西の池のハスがすっかり無くなっている
のには無念な思いがした。
  花先の淡く円やかなピンク色が白い花弁に滲んだように見える蕾が次第に開き、
その辺りをトンボが回遊し、ゲンゴロウやミズスマシが葉に埋め尽くされ僅かに
残った水面に波紋を描く………、そんな光景はもう再現できないのだろうか?。
  車を東門に廻して貰い乗り込み、次の目的地へと出発した。

























与論らしさ part-4 帰郷感想文 その2『プライベートビーチの出現』  From: "ikeda"
Date: Wed, 21 Jan 1998 15:37:00 +0900
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 午半ばを過ぎて、突然に眩しいほどの光が射し込んできましたが1昨日は初
雪が舞い、昨日は今年最低の−4℃が記録されました。
 遠山さんの入会に賛成!!

 kishimoto wrote
・わたしは,池田さんの「与論らしさ」の中には,与論の文化はなにかを考え
 与論の島の人のものの考え方は何かを考えさせ,畏敬を持って体験させるも
 のを持たなければならないという希望が隠されているように思います。

 まさに仰る通りです。「畏敬をもって体験する与論文化の再生」これが私の
描くこれからの与論像のコンセプトです。畏敬など思い上がりだと言われるで
しょうが、島を訪ねた人達が「何故、この地は……?この人達は……?」と我
を振り返るインパクトになってほしいのです。故に、与論文化とは?について
島人自らが思い起こし、考え、実践を通じて世界へ発信してほしいのです。そ
の発信源は与論高校が最適です。何故なら彼等には思いに共感し得る無限の仲
間がいるしその役目こそが島の最高学府としての責務のひとつでもあるはずだ
から。
 《畦は誰が守る?》
 私は父からこんなしきたりがあったと聞いたことがある。「上の田畑の持ち
主が畦を守る。それは代々伝わる約束事だった」と。土地改良や区画整理がな
されぬ頃、人々の田畑は複雑に入り組んだ僅かな巾の畦で仕切られていた。畦
が崩れれば自分の田畑は勿論、下の田畑へと被害が及ぶ。雨が続けば見回りと
嵩上げに必死になり、収穫の時期には下の田畑の豊かな実りにまず安堵した。
更に言うならば、田畑の高低差は貧富や身分や家柄に関係なかったし、場所に
よってその位置関係は変わったから、その立場を越えた責任分担であった。私
は此処に与論文化のひとつを見る。

対人間間距離、勉強しない学生、工学技術者の孤独感、アルキメデス……、堺
の風景、断片的にですが思いが広がります。その思いは次回!!

 帰郷感想文  その2『プライベートビーチの出現』

  私も幼い昔、プライベートビーチを持っていた。と書くと訝るかも知れない
が正直そんな思いであの浜を見つめていた。私は「おもいで」と言う回想記で
その浜の辺りの風景を次のように書いている。
  『クワーダキイシ(子抱き岩)を横目で見てイチョーキ長浜を過ぎると陸に
上がり蘇鉄やススキに囲まれた小道をしばらく歩いた。10分も歩くと一帯の
見晴らしが利き、「パナリ」と呼んだ離れ島も間近に見える砂浜の高台に出
た。この高台を少し歩くとかなりの急勾配で下って波打ち際につながり、左手
には「パトウヌ ミジ(鳩の水)」と呼んだ雨水溜まりの窪みを持った大きな岩
が聳えていた。
 「ハンバラ」と呼んだ海辺の岩は波に洗われる範囲は滑らかでも上の方は鋭
いあばた状になっていて、素足で歩くのは大変だった。渇いた喉を潤そうと、
あるか解らない溜まり水を求め痛さを堪えよじ登った岩だ。この岩の近くだけ
は水深も浅く、干潮になると膝まで濡らせば歩いて「パナリ」に渡れた。
 「パナリ」はほぼ丸い外周を4、5メートルの高さの岩で囲まれており、蘇
鉄やアダンが密生していた陸に上がる事は出来なかった。「パトウヌ ミジ」の
向こうは100メートルほどの長さの緩やかな弧を描いた砂浜だった。この砂
浜の奥には、道を隔てて我が家の「ハニブ」の畑があり、我が家の浜と言った
感じだった。我が家の畑の中央あたりには小さくて浅い井戸があった。覗くと
いつも乾上がって底を見せたが、砂地で痩せた畑もこの井戸があるだけで豊か
さを感じさせた。また、畑の西に斜めにせり上がっている蘇鉄山に、ひときわ
目立った山百合の花を見る事もあった。畑仕事の合間にはこの浜に出て泳いだ
り蛤を捕ったりして遊んだが、いつも自分達家族だけで何の遠慮も要らなかっ
た。この砂浜が途切れると藪道へ戻り、少し登って行き、灯台を越すと次の砂
浜が出た。この砂浜はたいして広く無かったが、「ハタンシ」と呼んだ広い環
礁がずっと沖まで続き、最高の漁場だった。更に行くと、まともに西に向いた
「ハニブ」の長い砂浜に出た。「ハニブ」の海は少しの風で波も激しく、潮の
流れも急で子供達の漁場には適さなかった。こんな海岸線の中で、兄と私が高
学年になってよく通った漁場は「パナリ」の周辺から「ハタンシ」の沖あたり
だった。……』
  ここで書いた100メ−トル程の長さの緩やかな弧を描いた砂浜が私の記憶
に残るプライベートビーチだ。イチョーキ長浜を過ぎて歩いたススキと蘇鉄に
挟まれた小道は大きな道に生まれ変わり茶花港?へ繋がる幹線道路になってい
る。茶花港への入り口辺りが、かって一帯が見晴らせた丘だ。其処で立ち止ま
り、まず眺めたのはその浜だ。しかし、あのプライベートビーチは折り重なる
ように建ったコテージで見えなかった。その内にコテージ群は浜への立ち入り
を拒む要塞に見え、浜はコテージ群のプライベートビーチになったのだと思っ
た。全く異質なプライベートビーチとして。このように私物化された?(真偽
のほどは知りません)浜が帰郷する度に増えているような気がして歯軋りす
る。海岸線から50㍍は公有地として残す条例が欲しいとテトラポット製作場
になってしまった岸壁(あれだけ大規模な投資と自然破壊の何たる結末か)を
歩きながら思った。「いやいや、そんな心配は無用だ。誰でも行ける道がちゃ
んとあるんだよ。それが島の文化だ」そう言って私を安心させて欲しい。


























帰郷感想文3『廃屋の行く末』   From: "ikeda"
Date: Mon, 16 Feb 1998 17:25:00 +0900
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帰郷感想文3『廃屋の行く末』

  弟が「明日は海へ行こう」とみんなを誘った。父はそれを聞いて早速の海支
度だ。
 母屋の西壁にぶら下げてあったらしい木を刳り抜いて作った水中メガネを持
ちだし、ガラス周りの糸を押し込んだりゴム輪の調整を始めているのだ。
  我々の車は空港ビルを右に過ぎた辺りで左へと曲がった。黒いゴムシートを
貼って作った池を巡る砕石の撒かれた道を車はのろのろと走り止まった。
 ゴムシートを貼った人工の池が島のあっちこっちで見られたが何れも水は底
に残っている程度であったように思う。水や泥に覆われてこそゴムシートの耐
候性もあるのだろうにと、大半が露出したゴミシートの行く末に不安がよぎっ
たり田圃が少なくなった分、島の保水力は大きく減ったに違いないし、水を漏
らさぬための土作りも忘れられつつあるのだろうと灌漑用(調整池かも知れま
せん)の人工池を見ながらあらぬ感慨に耽った。
 車を出て突然に目に入ったのは色褪せたコンクリートの廃屋だった。否、良
く見ると廃屋ではなかった。マイクロバスらしき車が停まっていたし人がいる
らしい雰囲気も伺える。
 「あの建物何?」と聞くと「国民宿舎だ」との返事。「営業しているの?」
「営業はしていないと思うよ。誰かが幾部屋か借りているんじゃないかなー」
会話はここまでだったしこの話の真偽は解らない。
 車を停めたところから少し下って10㍍も歩くと其処は砂浜から続く海だっ
た。南と北に聳えるハンバラ(岩)に囲われた50㍍ぐらいの短い砂浜だ。
 波打ち際を歩き波が洗ったばかりの砂の感触を必死に味わった。妻を呼び寄
せ「見とけよ」と言って砂に少し埋まった珊瑚石を足で掘り起こした。
 「あれ!」と驚きの声が出た。何も出てこなかったのだ。波打ち際に転がっ
ていた珊瑚石は小魚や蟹やヤドカリ達が好んで住んだ雑居ホテルで掘り起こせ
ば必ず顔を見せたのに……、此処にも廃屋が転がっている。
 パンツ一丁になった父が網の袋を持って泳ぎだした。少しづつ潮が曳き波頭
の中からリーフが顔を見せるようになってきた。
 暫くして、弟等が造った遊歩道があると聞き、南のハンバラの上を通る遊歩
道に向かった。登り口には与論駅と書かれた看板が建ち、駅を強調したいのだ
ろうわざわざレールが敷かれ車輪が置かれていた。
 階段もコンクリートで出来、歩道も簡易舗装されているのに草藪に覆われ久
しく人が通った様子はなかった。
 上に登って西を眺めると伊平屋島も見え、眺望は最高だ。目線を北へ振ると
ハンバラの向こうにプリシアから伸びるハニブの長い砂浜が目を覆い、南へ振
ると沖縄の辺土岬が霞んで見えた。黄色から赤に染まるアダンの実も際だった
アクセントになっていた。振り返ると先程の国民宿舎が再び目に入った。
 あちこちの海岸線で見た廃屋や空き家群はこの先どうなるのだろう?。この
まま産業廃棄物になってしまうと大変だ。今ある遊休設備を再点検、総括して
有効な活用方法を考えるのが町行政の近々の重要な課題だと思った。


























当時の思い出 From: "SEIICHI HIRAI"
Date: Thu, 30 Jul 1998 21:48:44 +0900
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28年前は沖縄が復帰しておらず、いわゆる日本の最南端でした。
倉敷を夜中に出発し夜行電車にて次の日の朝西鹿児島に着きます
そして、船の出発は夕方、そして与論島に着くのは次の日の8時ごろ、
運良ければ接岸できるが悪ければ沖で小さい船に乗り換えねばならない
船酔いしながらお客の弾く蛇三線の歌を聞きながらの船旅であった。
港に着くと民宿の客引きに歓迎される。自分も次の日から客引きをはじめる
島での生活はおにぎりを作ってもらっては、どこということなく海岸へ行っては
浜で体を焼いたり海に潜る毎日であった。
ダイビングというより島の叔父さんが作った水中眼鏡と、腰に鉛をつけてもぐるだけである
しかし、あの海の美しさは、いまだに目に焼き付いている
百合が浜には最初はびっくりした。突然島ができるもんだから。
潮加減を見て歩いてわたったりもしました。
一番傑作は、島の北にある墓場を通り抜けた海岸で島で知り合った人たちと泳いでいるとき
あまりの開放感から、4人ほどの男女みんながスツポンポンで泳いだことがあります
気持ちよかったですよ。
夜は民宿で過ごしたり、たまに一軒あったスナックらしきもの、というのが
蛍光灯に青や赤のセロハァンを巻いて演出しているだけ。
結構一人旅が多かったですよ。私もそうだったけど。
恋が芽生えては夜の海岸が忙しかったように思います。


























RE: 当時の思い出 (その後、、、)  From: "三井"
Date: Sun, 2 Aug 1998 10:59:17 +0900
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>28年前は沖縄が復帰しておらず、いわゆる日本の最南端でした。

23年前、沖縄海洋博覧会 開催、この年頃より年間観光客数が倍倍ゲームで
増えてゆきました。ピークは1983年頃、、14万人もの客が島を埋めました。

>倉敷を夜中に出発し夜行電車にて次の日の朝西鹿児島に着きます
>そして、船の出発は夕方、そして与論島に着くのは次の日の8時ごろ、

ピークの頃の7.8月は西鹿児島から毎日、関東関西から日替わりで1日2便の
船が往来しました。きっと想い出に残っていらっしゃる船底、、2等B席、、ザコ寝
の客室は定員の2割り増し、、500名もの客を乗せてやってきました。
1日1000人がやってきて1000人が出てゆきました。

>運良ければ接岸できるが悪ければ沖で小さい船に乗り換えねばならない

1981年頃、、新しく与論港が出来ました。1万トンクラスが接岸できるように
なりました。しかし台風が来るとあいかわらず茶花沖でハシケに乗り換えです。
もっとも最悪だったのは下りが入港して上りが欠航した場合です。
1000人がやってきて1000人が帰れない、、、定員40名の民宿が相部屋
につぐ相部屋で90名 収容。おまけに生鮮食料品が入ってこない。

>港に着くと民宿の客引きに歓迎される。自分も次の日から客引きをはじめる

沖縄海洋博 頃よりエスカレートしはじめ、、一つ前の港、、永良部より客引きが
乗船してくる。しかしパック旅行&学生ツアーがほとんどになり自然消滅。

>ダイビングというより島の叔父さんが作った水中眼鏡と、腰に鉛をつけてもぐるだ
>けである しかし、あの海の美しさは、いまだに目に焼き付いている

沖縄海洋博の頃 オニヒトデの異常発生。サンゴが壊滅的被害をうける。
しかしその後、順調に回復したところも多い。半径20cm ほどのサンゴが群生
している。
現在はテトラポットが異常発生!

>百合が浜には最初はびっくりした。突然島ができるもんだから。

サンゴや貝のアクセサリーをしつこく売りつけるようになる。また、
ウインドサーフィンスクールまで登場した。しかし炎天下であまりにハードなため
現在はもっと気楽なジェットスキーが主役に取って代わった。

>一番傑作は、島の北にある墓場を通り抜けた海岸で島で知り合った人たちと
>泳いで>いるときあまりの開放感から、4人ほどの男女みんながスツポンポン
>で泳いだことがあります 気持ちよかったですよ。

ピークの頃は人のいない浜がなかった。また、空缶空き瓶のころがっていない浜が
なかった。現在はなんとかOK,,しかし島の子供たちの都会的ファッションを前に
しては開放感が出ないと思われる。

>夜は民宿で過ごしたり、たまに一軒あったスナックらしきもの、というのが
>蛍光灯に青や赤のセロハァンを巻いて演出しているだけ。

その後、茶花は与論銀座、、と呼ばれ数十件の店が連なり歩行者天国ができました。
連日、祭りの縁日状態でまっすぐ歩くなんてとても、、、。

>結構一人旅が多かったですよ。私もそうだったけど。
>恋が芽生えては夜の海岸が忙しかったように思います。

最盛期、鹿児島県警から12名の警察官が応援にやってきました。
夜の浜の見回り、そしてサトウキビ畑に隠れて飲酒検問。

PS

竜宮城から連れ戻してスミマセン(笑)
現在の与論はまたノンビリとしたものです。それでも平井さんが25年ぶりに訪れる
と驚きでしょう。しかし14万人が訪れていた1983年当時に平井さんが訪れたら
どんなに驚きだろうか、、、とおもうと思わず書いてしまいました。

























始めに